昭和41年06月21日 朝の御理解



 昨夜、菊栄会でございました。昨日は菊栄会の方たち全員出ておりました。菊栄会はもう殆どが全員出ておりますけれども、まぁ偶には欠けます。昨日は全部も出てきておりましたが、全部も出て来た所でまあ8名ですけどね、8名の人達の信心共励をするわけですけれど、そんなわけでしたから、ちょっと早めに御祈念をきりあげまして、御祈念がすんでからでした。久留米の佐田さん達が、夫婦でお参りしてきておりました。
 それで一応お取次を終わらしてもらってから、そこで火鉢んところで夫婦のものが一生懸命信心の話を話しこんでるんですね、この頃もうあっちお母さんが非常に熱心に信心にまあ熱が出てきたと、毎日日参なさっておられます。ですからもう親子3人で話し出したらもうやっぱり、夜中にまでいつもなるという話を聞いておったが、なるほどあんたどん夫婦でこれだけ信心の話を熱心にするなら、なるほど夜中にまでなるだろうなと言うてから、私もそれに加わらしてもらって。
 まぁ一時間ぐらいでしたでしょうか、お話をさして貰ったり聞かせて貰ったりした訳なんです。そして私いろいろ佐田さんの話を聞かせて頂きよってから、感じましたことは、おかげを受ける人は違うということですね。非常にその真面目に一心に、神様にお縋りしてですね、真面目に一心に全てに、打ち込んでおるのです。大体お道の信者に限らんのですけれども、信心さして貰うともう神様のおかげばっかりを頂くというのがその棚からぼた餅の落ちて来る様な事ばっかりを。
 まぁ夢のような、一つの空想とでも言うでしょうか、ものを持って信心しておる人が多いようですね。いつかおかげ頂くじゃろうち、そしてんなら仕事の自分の頂いておる仕事に忠実じゃないです、真面目じゃないです。信心しておるからあそこは成程違う、品物も確実である、安くてそして主人がなかなか真面目な人だと言った様なが少ないですね、よそよりも幾らか高か、人物もあんまり上等じゃない、それでいてもやっぱり信心だけは一生懸命しておると。と言う様な人が多いようですね、うん。
 例えば大体が真面目な人。真面目な人が教えを頂いてから、いよいよその教えに忠実に、しかも一所懸命努力をする。椛目に御神縁を頂いてからこの方のことを、ずっとその佐田さんが奥さんに話して、まぁ私に聞いてもらう、奥さんに聞かせるという話。今の日田の方の奥さんの里の、中野の家の方のいろんな問題で、ね、今酒屋をしてから儲からんという筈がないじゃないかと。
 お前ところの里の方の酒屋の方が、もういよいよ、いよいよいけないという時に、私があちらに行ってから、現在あれだけの店にして、もう誰が座っとっても、誰が行っておっても、まぁ儲かって行くだけの事にして、弟達、妹達夫婦にあちらを任せて、言わば譲って、それで佐田の方へ帰って来てして現在、佐田の方の支店の方が、もうどうにも出来なかったのだけれども、こちらへ帰らして頂いて、自分が帰らして頂いて此方というものは勿論信心、一生懸命お縋りさして頂いてから、現在のようなおかげになってもう、何年間の間をずっとみると、思うようにおかげを頂いてきておるじゃないかと。
実は、明日からですか、明後日からですか、どっかの卸屋さんの招待で鹿児島の指宿から宮崎の方へまあ招待旅行があるらしいです、それが是非夫婦で出て、出らんならんという会議もあるそうです、指宿の温泉で。ですからお前がもう一遍、旅行したい旅行したいちゅって言ってもうちゃんと、まぁ待て、まぁ待てと言いよったら、ほうら夫婦でちゃんとその旅行さして頂けれる、様な事になってこうがと。と言う様にです、もう思うておる通りのことをここ椛目に、ご縁を頂くようになってから。
 10年余りでしょうか、もう本当にもう見事におかげ頂いて来とろうがって。というて、んなら、今の日田の方であぁ言う風に修行してきました(勝行さん?)たち夫婦のことやら、又はまぁ酒屋の方をさしております、妹達夫婦たちもあげなことではおかげを、頂けんと言う事が分かろうがというてその、不真面目であること、真面目でないこと、精進しないこと、努力しないことをあげて、信心もいくら神様にお縋りしたっちゃ、自分が精進せんなら、自分が真面目でなからなければ。
 努力しなければおかげは受けられんと、言う事が分かるという話をしておりました。確かにですね、神様にそげん一所懸命ならんで、信心ちゃあそういうもんだというです、真面目に忠実にです、自分の頂いておる仕事にです、一生懸命になるならば、確かに思うごたるおかげが頂けれるようですね。これは私は、だからそれでどうと言う事はないですよ、例えばあの何ですかあの、久留米の石井さんの場合がそげんですね。もうこの位努力する人がないです。この位商売に対して真面目な人はないて、ね。
 それに信心ともうこれなら絶対、思うようなおかげが受けられると言う事です。ね、お互いがですね、信心はしよるけれども努力しない、信心はしよるけれども、まぁ努力はしとってもです、忠実でないって教えね。これではおかげを受けたり受けられじゃったりと言う様な事があると言う事です。それでもやはりおかげというものを、やはりはっきり自分のこれに感じるですからねやはり。ですから信心は辞められんから精進しておるというなのが何十年続いてもだから、大した言ないと言う事です、ね。
 ですから、昨日も私話しながらです、今日は菊栄会がありよるが、本当言うたら佐田さん、あんたの信心のひとつの素質というものが信心の素質というが、真面目なという意味合いにおいては、もう本当は、もうぼちぼち菊栄会にでも入らして頂かなきゃならんのだけれど、まあ今の信心じゃまあだ難しかと。いやもうそりゃとても、菊栄会と聞きゃあもう椛目の次の椛目を担うと言われるくらいな人たちの集いだということを聞いとりますから、私どんには難しか、ならもうまあだいまは難しか。
 けれども本当言うたら、あんたどん年配といい、信心のひとつの生き方といいです、大体言うなら、菊栄会でも入らして貰わんならんような、丁度年配であり頃合なんだけれどねと。けれどもまぁだ今のあんたが入りたいと言うても、まだ入られんだろうけれど、と言うてまぁ話したことでしたけれどもね。と言って私はまぁ丁度御理解の終わった後でございましたから、夕べの御理解を、ね、今のあんたの思うようなおかげを頂かしてもらおうと言う様なその今話に、俺が言う通り思う通りおかげ頂いてきとろうがと。
 それもまた、本当にあの時分のことを、ご承知の方は、本当にそうだろうと、思われるだろうと思うですけれども、日田の奥様の里の、酒屋がもう潰れ、もう潰れるというもう潰れなきゃ嘘だと、言う位な状態の中を、やっぱり現在まで、何年間の間にしておられる事だけは間違いないですもんね。そのそれ以前になら、食料品をしておられた時分でも、俺はじょうけに及ばんごたった、もうまるやが出来た時からあちらへ行っておられるですね。近所ですから。
 そしてなら帰って来てから現在、佐田よ物産の支店の方を承って、それが思いもかけないほうへと、仕事がどんどん進展していって、おかげを受けておるということ。もう本当に、成程言わばお前がどこに、一遍旅行したい旅行したいと言いよったが、ちゃんと旅行さして貰えれる様になっとろうが、と言う様にです、ね、ちょっと時期を待たして頂いて、お願いをさして頂きゃあ、思うようなおかげが受けられると、いうおかげを確かに頂いてきておられるです、ね。
 ですから、言わば信心さして頂いてからね、本当に私が頂くというのは、思う様におかげを頂くと言う事ではなくてからね、思う以上におかげを頂くと言う事なんです。だからそこんにきがです、努力しない人です精進しない人です、長年信心しておかげの受けられない人がですね、思う以上のおかげを頂たいという夢の様なおかげを願いながらです、そして思い以上のおかげの頂けれる様な信心はしていないと言う事です。
 この辺になってくる時に、なるほど菊栄会辺りの信心が、なるほどものをいうて来る様ですね。言うなら、まぁ今椛目で菊栄会の、方達のような信心がです、言わば将来確かに思い以上の、言わば夢にも思わなかった、ようなおかげを頂れる、信心のコースを辿っておる人達だと言う風に思いますですね。なるほどああいう生き方でいくならば、力を受けるだろう、力なしには担われません。次の椛目を担うといった所で、力なしに担われる筈はありませんもの、ね。
 だから次の椛目を担うというて、立たれるだろうと思われるような人達の信心の、まぁ言うならば、そういうものを持っておる人達はです。夕べの御理解なんかでもなるほど菊栄会の者に下さる御理解だったと私は思うんですよ、ね。それは結局、私はこういうおかげを受けておる、私はこういう信心をしてきたということになるのです、だからその話になると、ね。私共はどっちかっちゅうならその、いわゆる無精者の方の例だったです、何十年間信心して。
 もう本当に人が十銭で売るものが十一銭で売れることがおかげのごと思いよったですから、私は、ね。神様には一心にお縋りする、お願いをする、ね。して商売には言わば何というですかね、私も酒屋でございましたけれども、それこそわすいの仕方どんばっかり勉強してから、ね、酒に水を入れるということですよ。そういう勉強はもう調合やらばっかり勉強してからです、ね、教祖の神様が教えて下さるようにです、人が十銭で売る物は八銭で売れと、そう言う事はひとつも実行してないのです。
 そして楽な方へ楽な方へばっかりを、考えておった、何十年間の信心だったと言う事ですよ。それでもなら、おかげは確かに受けてきておるけれども、そのおかげが実りになるようなおかげは、何十年間頂いてなかったと言う事です、ね。もうここいよいよ行き詰ってしまったと、もうどうにも手も足も出らんと言う様になってから、初めて今までの信心ではおかげの受けられん、と言う事を何十年ぶりに分かっただけの事です。
 そして今言う、夢にも思わなかったような、おかげの頂けれるような信心を、私は身に付けてきたとこう思うです、ね。ですから、今の椛目のほとんどの人がです、そういうおかげの頂けれるものを、言わばもっておるということにもなりますよ。ひっくり返して言うと。無精者が多か真面目じゃない、忠実でない、それでもおかげは受けておる。佐田さんやら、石井さん辺りの様なのは、本当に椛目ではまれだということ、ね。仕事にあれだけ忠実である、もうあれだけ努力をする。
 それでいて神様に信心もする、お願いをしながら努力しながら精進しながら信心さして頂きよる者のは、こうなからなければならんと、言う様なあり方で進む。けどもそれだけではやはり、本当のことじゃない。いわゆる思うような、おかげは受けられても思い以上のおかげ、夢のようなおかげは受けられないということ。だからそういうおかげの頂けれる器を、皆さんがまあ持ち合わしておられると言う様な気がする、いよいよ何かに、まぁ行き詰るというわけじゃないけれども、何かに事にあった場合です。
 本気で信心ができられるようになると、私が何十年ぶりに行き渡ってから、翻然と分からして頂いた様な所に入っていけれる、そういうものを椛目の人たちは持っておられるという。これは確かにそうだ、おだてて言うのじゃない、本当にそうです。昨日、夕方から現場の方へちょっと寄らせて頂いた。もう私はいつも思うんですけども、行く度に本当にもう明日では遅過ぎると、(それどころか?)私が行っとらんじゃったら出来なかったと言った様な事にいつも、その行き合わせるんですよね。
 もう本当に神様は使うて下さるわけでしょう。そして行く度に思わして頂くこと、本当にこれはもういよいよ、私がああでなからにゃいかん、こうでなからなきゃならんというのじゃないけれどもです、ね。本当に私好みに出来て行きよるということです、ね。その事を私、昨日お礼申さして頂きよりましたら、お風呂の中でそれを感じよりました。もう本当にどこからどう、どうやこう言いながらもです、結局私好みに出来ていきいよるなあと、私は思わせて頂いたらですね、神様から心耳に頂くんですね。
 心の耳に響いてくるのですよ、それがあのはっきり、うんはっきり頂いた通りの事はどう言う事だったですかね、何だったですか、久保山先生、いんやそう言う事じゃない。うん?熨斗を付けるものなればか何かじゃったですね、ね。熨斗を付けるものなればか何かという言葉で頂きましたです。そしてすぐ今度は御心眼にですね、わらびですね、わらびの肥えたわらびがですね、とこう出てからちょっとこう、熨斗のような感じでしょうがあれは。わらびの出た所が熨斗のような、ね、それは御心眼ですね。
 それから御心耳には、あの熨斗を付けるものなればとこう頂きます。ははぁわらびの、これから私はそれを思ったですね、言わば自然がですね、私に熨斗を付けて下さるものなればということなんです、ね。神様が私に下さろうとしているものなればと、しかも熨斗を付けて下さろうとしておるものなればということです。だからお前のお前好みになるはずだということなんです。ものをひとつ進物さして頂くでもですね、酒の好きな人にはやっぱり酒はあげなければいけんでしょうが。
 甘いものを好きな所には、やはり甘い物を持って行くだけでいい、そんな反対になったらいかんでしょう。折角熨斗を付けて差し上げるものならば、あちらに喜んで頂くようなものでなからなければ、熨斗を付ける値打ちはないと言う事です。神様は言わば私に熨斗を付けて下さろるものなれば、お前好みに成る筈じゃないかと言う事なんです、ね。ならですから私にだけ神様がです、熨斗を付けて下さるかと言うかと、それはそうではない、実を言うたら。
 もう皆の氏子に神様が喜んで下さるようなおかげを下さりたいのが、神様の願いだということ、ね。私どもが思うようなおかげを頂くということは、一心にお願いをして、一所懸命努力をして、本当に教えに忠実で、これであれば思うようなおかげを、どうぞお願いします、下さい下さいと言うのですから、それでも真面目だから忠実だから、思うようなおかげ下さるだけのこと、ね。下さいと言うから、下さるだけのことです、ね。ところがなら私の場合になるとそうじゃないでしょうが。
 私下さいとも何も言わん、必要とは思わない、ね、欲しいとも思わない、けれども私の好きなタイプとか私の好きな、言わば私好みというものを神様はようご承知、ですから私好みのものを下さるわけなんです。そこでいわゆる夢にも思わなかったようなおかげということになるのですよ。そんならどういうわけにそう言う様なおかげが頂けるかというとですたい、ね、私自身が神様に熨斗を付けておるからです、一切に、ね。
 久留米の初代石橋先生が仰っておられるように、信心生活とは、自分達の一切のものに熨斗を付けておる姿だとこう仰る。神様からお知らせを頂いておられる、ね。又は人間の一握りはこれだけだけれども、神様の一握りというたら、どれだけあるやら分からんとも言うておられる、ね。私がいかに、私の名前になっておるものがですよ、言うならば、神様の御物だと、言うたところでそれは一握りのこと、ね。
 けれども、それに対して神様は一握りのものを下さることになれば、れだけあるやら分からんというおかげになってくる、ね。本当の信心生活とはです、私共の一切にです、ね、熨斗のかかった姿である。信心生活とはという偉い先生のお話を聞かれながら、久留米の初代の石橋先生がそれが、あんまり理論的なお話であるから、分からなかった。それで、神様にそのことの御神意をお伺いされたところがです、ね、生まれたばかりの赤ん坊が紅白の夜具の上に寝せてある。
 それに大きく紅白の水引が掛っておる姿を御心眼に頂かれて、ははぁ信心生活とはこういう生活をもって、信心生活というのだと悟られたという。誰でも生まれてきた時に、着物一枚でも付けて、生まれてきた者はおらん。いわゆるこの丸裸なんだと。その丸裸で生まれてきた私にです、(こうり)がついて、家やら着物やらが様々な私の、名の付いておるものはです、ね、私の物のように思うておるけれども、実際はみんなあなたの御物であろうということ。
 私が一億円の財産を持っておってもです、ね、成程通帳には私の名前で預けてあってもです、神様がもし必要とあるならば、いつでもあなたの御物でございますから、自由にお使い下さいと言う様な、言わばいつも一切の物に、熨斗を付けておると言う言。これは私共の場合、まあ大きなことのようですけれども、もうこの物やら金やらの事だけじゃありません。それこそこの生命にも熨斗を付けておるということです、ね。
 まず私自身が、まず氏子自身がです、ね、自分の一切の物に水引を付け、熨斗を付けるような私は姿のことを信心生活というという、そういう生活ができれるようになる時にです、神様がまた一切の物に、熨斗を付けて下さるような、しかもそれは、その氏子の性格、好みに合わしてです、夢にも思わなかったような、おかげが頂けて来る様になるんだということです。椛目に御神縁を頂いておる人たちはです、そういうおかげの頂けれる受け物は持ってはおると思います、ね。
 上げたり下げたりするようですけれども、確かに類は類を持って集まるのですから。私が過去何十年の信心のような、生き方での人が多いということです、椛目では。そして何か知らん、棚からぼたもちが、今に落ちてくるような気持ちで、何十年間を過ごして、一所懸命無理を言うから、時々はその、はぁおかげと言った様なおかげを頂くもんだから、やめなきらんなりに、何十年続いてきておっただけに過ぎなかった信心。
 と言うて、んなら石井きよしさんやら、佐田さん達のような真面目な、言わば商売をしてきてないということ、仕事をしてきてないということ、ね。だから思うようなおかげを頂たいならば、もうちっと努力しなきゃいけない。もっと教えに忠実でなからにゃいけない、ね。そしてもうちっと努力をしなければ、思うようなおかげにはならないということ、ね。けれどもでなかったらです、いよいよ私共のがね、仕事のほうはちっと無精もんでもです、もう信心の分だけは一生懸命、ね。
 仕事はもう好かんばってん、信心は好きと言った様なタイプの人が、椛目には多いですもんね。ならそういう人達が、いよいよ火の玉のようになって、信心に打ち込んだ時です、本当の信心生活ができるようになる、そこからです、頂けてくるところの神様が、ね、熨斗を付けるものなればとこういうこと、ようなおかげ。神様が熨斗を付けて下さるようなおかげ。それは願わずしてから、ね、進物なんかというものはどこから、何をもろうたことか分かっとらんでしょう、ね。
 大概あっちから、何か来るとは来るようごと何じゃ分からん、ね。神様下さるものまでは分からんけれども、結局はこちらの、言わば好みとか趣味とかで、神様はご承知だから、結局、私好みのものを神様が贈って下さる、熨斗を付けて贈って下さると、言う様なおかげ。それを私、夢にも思わなかったようなおかげという、ね。本当のおかげ、だから御教えの中に、私が頂いとる御教えの中にですね。
 願っても願っても右が、右と願えば左、左と願えば右というように、思うようにならないような時にはです、ね。今の椛目のような方達のような、状態なんかの場合はです、もういよいよ、神様の働きがあっておる時ということです。ですから、それはどういう意味であっておるかというと、もういい加減に悟れよと、もういい加減に分かれよと、いう働きがあっておる時ということなんです、ね。
 そして、思うようなおかげの時には、用心が必要ぞということです。だから喜代司さんや佐田さんあたりのような、がですね思うごたるおかげの受けらるけんと言うてからですね。言わばちょっと腰掛けられたり、間違ったりしたらもう、すとっとおかげは止まるです、これは間違いないです、ね。その人が真面目だから下さっておるだけのことですから、真面目じゃなくなったら、もうあんなおかげはすぽっと止まるおかげです、ね。けれどもそこをもう一つ今度は、乗り越えてですたい、ね。
 神様が夢にも思わなかったような、おかげという時のおかげがこれは、本当のおかげだということなんです。本当のおかげというのは、自分が夢にも思わなかったような、おかげが進展してくること。それが限りなく頂けてくるようになるということ。それを、まぁ申しますならば、身に徳を受けてのおかげということになります、ね。なら身に徳を受けるために、私共が本当の信心生活ができなければならない、ということになるですね。
   どうぞ。